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今年50歳になった私も79歳の母の前では幼な子と変わりなく
私自身も母と一緒にいると、今現在起きている出来事と子供の頃に経験した出来事とが重なり合い、未消化な感情が、まるで再現ドラマのように蘇ります。
それが、古い感情であり、今の体験ではないこと。
私が見ているのは自分の心の中に内在している大き過ぎる母の存在なのだと、少しずつ向き合っています。
長くなりますが、親子の問題で悩んでおられる方に向けて、ここ数週間の私自身の体験について綴ります。
私は父が60歳、母が29歳の時に誕生しました。
出生児、母は未婚。父親には正妻がいて、私は愛人に産ませた子供です。
正妻との間に子供はおらず、私が小学校に上がる頃に離婚が成立し、父方の姓を名乗ることになりました。その頃までは父親は大阪市で会社経営をしていましたが、母と入籍する頃には認知症が始まっており、会社の権利を乗っ取られ、半ば夜逃げ同様に母の郷里に近い京都府宇治市に転居しました。
当時介護保険もない時代、認知症があるというだけで、持病の心臓病が悪化しても一般的な病院では個室で24時間付き添えと言われる時代で、経済的に苦しい私たち母娘は人を雇うことも出来ず、二人で交代して看るしかありませんでした。
それでも入院が長期化すると経済的に苦しく当時はまだ全国的にも稀だった、老人専門病院に騙して連れて行くしかありませんでした。そこでは、100人近い性別も関係ない認知症患者さんが、一部屋に収容されており、介護者は不足していて、その頃はまだ歩くことが出来た状態でしたが、手がかかるという理由でオムツをさせられ(布製)どんなに濡れていようと時間が来ないと交換もされず、私物は管理が難しいので何一つ許可されない牢獄のような場所でした。
そこに入院してわずか一ヶ月で父は還らぬ人になりました。霊安室は病院の正面玄関入ってすぐの場所にあります。入院の際に死亡後はすぐに引き取るように書かれたものにサインさせられます。
母は仕方がなかったとは言え、この病院に転院させたことが心臓に重大な疾患があった父の死期を早めたのだと自分を責めました。
葬儀では、もともと父の愛人だった30歳近くも年下の母との間に産まれた私についても父の兄弟たちは「認知されているのか」と嫌味を言われるほど私たちは疎まれ、母はその後、寂しさや、やるせなさ、何かを忘れようとするかのように、男性遍歴が続きます。
父親が亡くなる前から付き合いにあった妻子ある男性A氏とは、母が70歳ごろまで関係が続きました。思春期の時期から、その男性のことが心から嫌いでしたし、娘の私にもA氏と打ち解けるよう強要する母のことも嫌でした。
それでも、父の介護と生計を支えるため懸命に頑張って生きている母親を見ていると、自分の不満は単に我儘なのだと飲み込んでいましたし、本当の気持ちは誰にも言えませんでした。
そんな私の我慢の限界は高校3年生の時です。眠っている時にA氏からわいせつな行為をされたことで、怒りが爆発しました。母には、何をされたか包み隠さず伝えてA氏と別れてほしい、A氏を取るのか?私を取るのか?と迫りました。
にもかかわらず、母は付き合いをやめられず、私は高校卒業と同時に母に行き先を一切告げず家出しました。
二度と母と会わない覚悟でした。私の一度目の結婚は生きていくための打算。母への当てつけだったかもしれません。結婚3年目の頃、婦人科系の癌に罹り、肺に転移していて長くは生きられないと20代前半で宣告された時も、生きていたくないと思っていたので、どうでも良いと思いました。
でも、生還し、冷えきっていた夫との関係を清算して離婚して一年後、今の夫と出会いました。
私に第二の人生を与えてくれたのは、今の夫です。
この結婚を機に、母とも和解しようとしました。特に不妊治療の末、妊娠した時は、産まれてくる子供が家族を繋いでくれる気がして京都府京田辺市に家を購入し、母との同居を決意しました。
ところが、8週目で流産。家の購入は既に決めていたから同居は開始しました。夫がいるのでA氏との関係が続いている母も夫に対しては多少の遠慮はしてくれると期待しましたが、以前と変わらず我が物顔で家に出入りし、その態度に夫もたびたび不機嫌になり、平成14年、山口市に夫の転勤が決まった際私も社宅に移り住みました。
それから3年後、夫は定年退職を迎えましたが、どうしても母のいる京都に帰りたくなくて、加えて私はちょうど仕事が面白く感じていた時期だったので、山口市に家を買い、定住を決めました。
そして、さらに月日が経ち、先月末に母から電話で、「膀胱に小さなポリープが出来て、内視鏡で取るから一応知らせておくけど友達も来てくれるし帰って来なくてもいい」と言ってきました。
私は医療に関わってきた経験から、それはおそらく早期にせよ膀胱癌。腫瘍の深さ、転移の有無によっては、深刻な場合もあると思いました。
そこで入院日の9月3日に帰省、入院に付き添い主治医から病説を受けたところ、腫瘍は相当大きいことを聞かされ、尿をためる場所がほとんどないため15分おきにトイレに駆け込むほどの頻尿と出血。膀胱摘出の可能性があることを告げられました。
それを聞いた時、もし膀胱摘出となれば長期入院、リハビリが必要で独居は無理かもしれないと思ったものの、この状況で遠い山口市に転院もさせられませんし、台風21号が近畿地方を直撃した4日に手術を受けました。
手術は2時間程度と聞いていましたが5時間を過ぎても手術は終わらず6時間に差し掛かる前にようやく終わり、主治医からは、このまま膀胱は温存出来ないと言われました。
術後一旦山口市に戻り夫とも相談して、膀胱、および周辺臓器摘出をすれば、その後のリハビリと尿を体外でためる袋(ストーマ)に慣れて見通しが立たないと一人にさせられないこと。
京都の病院で手術となれば、今は自営である私も仕事にならず、わずかな期間で決断して山口市内の病院へ紹介してもらい、尿の管をつけたまま、自家用車で連れてきて転院させたのが今日のことです。
これから相当長い闘病生活になるでしょう。
母の言動を見ていると、常に自分で決めて、決めたことには全て肯定的理由づけをして、「こうに違いない!」と言います。例えば「あの人可愛そう」「こうしてあげるのが一番いい」
というふうに他人事への決めつけが特に多く、子供の頃はそれに逆らえなかったから辛かったのだと理解出来ます。
今なら、多角的に物事を捉えることが身につき、また人前で母と議論せず、母が聞き入れやすいタイミングを選び、表現方法も工夫をするようにしているため表面上は上手くいっています。
特に他人から「親は子供を無条件に愛しているとか、母一人子一人なのだから優しくしてあげて」と正論を言われることが胸をえぐられるぐらいキツイことは理解できるので、私は私がこういうカウンセリングを受けられる場所があれば良かったのに…と思っていたことを忠実に守っています。
そう考えれば母がいたから、カウンセラーになろうと思ったのだとも言えなくないです。
無理せず今できることをする。自己犠牲ではなく共存共栄を目指す。正しさだけを主張しない。どちらが正しいかを論ずれば争いが絶えなくなります。人の価値観はそれぞれなのです。
こういうことを言うと不謹慎かもしれませんが、母を山口市に連れてきて、今あらためて母娘が向き合うチャンスが与えられたのだと感じました。
母娘の50年は、真正面から向き合うことを避けてきた歴史なのかもしれません。私はいい娘であろうとして口ごたえを避け、特に人前では、理解のあるしっかり者の娘を演じて母の期待に応えようとしてきました。
そして演じることに疲れたら母の前から居なくなることで対処してきたのです。離れて暮らしていても、問題解決を先送りした感覚がいつも心の片隅にありました。
もし、母の病気が、たとえば脳梗塞で倒れて介護が必要な体になっていたとしても、施設入所させ、直接の関わりを避けていたかもしれません。
わずか数日の間に決断せねばならない病状だったからこそ、母と共に過ごす覚悟も出来たのだと思います。
カウンセリングを学んできたことで、自分の気持ちをあらゆる面から検証する力がつき、問題との距離の取り方が上手くなりました。
親子の関係は、性格が合う合わないにかかわらず、親だから、我が子だからわかってくれるはず!という期待が絡み、それが憎しみをも倍増させます。
近すぎる関係だからこそ見えないこともあるということを肝に銘じて理想を追い求めすぎないことが大切です。
私たち母娘の第2章は始まったばかり。
ゆっくりと歩もうと思います。